人称と視点

 複数の視点があれば三人称、ではなく、人称と視点は別モノではないかと。
 ちなみに私の「人称」「視点」の用法は中島梓『小説道場』に全面的に依拠しています。こちらを参照。例えば「三人称・一人の視点」は一人称に極めて近いのですが、それでも別物である、との立場をとっています。
 『とらドラ!』の場合、「竜児は」を「俺は」にしてしまうと、例えば最後に竜児が目をつぶってしまったあと(p243最終行以降)の描写が、不可能もしくは極めて不自然になると思われます。竜児の視点から神の視点(「いまはまだ、この世界の誰も」知らないことを語りうる視点、「この世界の誰か」の視点では語りえないことを語る視点は、神=作者の視点と称すべきかと思われますが)への移行がなめらかに行かない。「俺は」という一人称で通すと、そのとき「俺」が見ていなかったものは、伝聞か回想としてしか登場できない。

(3/19追記)

 初歩的なことだが一応。
 中島梓『新版 小説道場』(光風社出版)第十回より。

(1)「Aは怯えた表情で一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させたかと見えた
(2)「Aは怯えて一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させたようだった
(3)「Aが怯えたように一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させた

 (1)が三人称・神の視点。
 (2)が三人称・Aの視点。
 (3)が三人称・Bの視点。

 これわかるかな。「神の三人称」(つまりまったき作者の視点ね)のときは、全員の心理感覚に立ち入ってしまうか、ないしは完璧に外側で止まる。「怯えた表情」はどこからでも見える。

 (2)では、Aは「怯え」を感じた。しかしBの激昂はAの目をとおしてしか、読者にはみえない。だから「ようだった」となる。反対に(3)にくると「怯えたように」がBの目をとおして見え、それがBを「激昂させた」わけだ。

 この視点は短編・中編は原則として途中でかえぬほうがいい。読者はある一つの目を通してのみ、その話の世界に入り込むことによって、誰に共感してよいかがわかりやすくなる。

 長編では原則として一シークエンス一視点だとか。

 『とらドラ!』は、基本的に竜児の視点。最初(p11)と最後(竜児が目をつぶって以降)、あとクラスメイトの「証言」のあたりは神の視点。三人称だとこの手のフットワークが効かせやすいのだと思う。

中島梓『小説道場』第十回より(3/25)

 実は、先生は──先生にとってはあまりにも、天性身について自然きわまりないことで、何一つ考えもせずにできるもんだから、諸君がさあ、視点ってわからないというの、どのぐらい本当にわかんないのか、想像もつかなかった。なんでわからんのだろうな。江森*1二段ほどの奴でさえ、と悩んでたら今回の滝尾*2一級の手紙をみて死んだわね。
「視点の方は、とにかく理解できてないので気をつけようがないですけど、わからないのは次の事なのです。(Aの視点とした時)
 ・Aと対話してるBの心理描写はすべてセリフと動作ですませるのか
 ・Aが登場しないときは誰を視点にするのか」
 わあっ、びっくりした。それじゃ本当にわかんないわけね。それじゃ乱れもするわなあ。
 いいか、まず二番目からゆくとさ、いいか、いいか、「Aを視点としたときAの登場しない時はない」んだぜッ!
 そこがついうかうかと、かの榊原シホミお姉様でさえ『カインの月』でもって、「ぼく」が植物人間になったらそのあとの分だけ三人称になっちゃった、という快挙をなしとげておられる(ごめんね引合いにだして古キズかきむしって)
 ここまではっきりしてなくても、三人称でも視点が存在するってことがわかってないと今回のやつのように、ずっとせっかく冽の視点できて、さいごでとつぜん、
「……きらめいたに(こらッ)*3艶子には思えた」とやっちゃった。
 Aを視点としたからにはさいごまでAの目を通さずにものを見たり語ったりしてはイカンのだ。むろん、視点をわざとスライドさすとか、うっかりやっても名作だったりいろんなその上のコトはあるけど、それはまだ諸君らには関係ない高級テクである。第一の問いなど云うにゃ及ぶ。君はAの中に入ってAとして世の中をみてるのよ。君は誰かと話しているときテレパシーであいての「思ったこと」「感じたこと」がわかるかい? え?
 面倒くさい。実技でゆくぜ。
 シチュエーションを設定しよう。じゃ、愛の告白ね。少年Aと少年B。Aを多一郎くんBを雄介くんと名づけよう。ぷは。
 用例一、Aの一人称の場合。
 
「え?」
 僕はびっくりして雄介を見上げた。
 雄介の男らしい顔は蒼ざめ、ひきつっていた。その両拳がにぎりしめられ、わなわなとふるえているのを僕は見てしまった。
「わからなかったのか。俺は、お前が好きなんだ――愛してるんだよ、多一郎」
 僕は耳を疑った。
 
 用例二、Bの一人称。
 
「え――?」
 多一郎がおどろきの声をあげて俺を見た。
 その目の中に驚愕と、そして不信と、心なしか嫌悪の色がたしかにあったと俺は思った。奴に青ざめてふるえている俺はどんなふうに見えたろう。俺は続けた。
「わからなかったのか。俺は、お前が好きなんだ――愛してるんだよ、多一郎」(しかしこりゃとんでもないエグい実例やなあ。このさき『魔界水滸伝』書けなくなっちまいそ)
 
 二人称はまず使わんだろうから省くよ。用例三、三人称、神の視点。つまりホントの純粋三人称。
 
「え?」
 多一郎が叫んだ。
 雄介は青ざめ、ひきつった顔で多一郎を見つめた。その両拳はにぎりしめられ、わなわなとふるえていた。多一郎は怯えた表情で一歩あとずさった。それがいっそう雄介を激昂させたかと見えた。
「わからなかったのか。俺は、お前が好きなんだ――愛してるんだよ、多一郎」(涼になど渡すものか──なんちゃって、ハハハハハ)
 
 用例四、三人称、多一郎の視点。
 
「え?」
 多一郎は思わず叫んでいた。
 雄介が青ざめ、ひきつった顔で多一郎を見つめていた。その両拳はにぎりしめられ、わなわなとふるえていた。多一郎は怯えて一歩あとずさった。それがいっそう雄介を激昂させたようだった。
「わからなかったのか。俺は、お前が好きなんだ――愛してるんだよ、多一郎」
 
 用例五、三人称、雄介の視点。
 
「え?」
 多一郎が叫んだ。
 雄介は自分が青ざめ、ひきつった顔をしているのをはっきりと感じながら両拳をかたくにぎりしめた。それをみて多一郎が怯えたように一歩あとずさった。それがいっそう雄介を激昂させた。
「わからなかったのか」(もういいや)
 
 いやーしかし見事だねー。我ながらホレボレするほどのあざやかさ。もはや神技の域ですわね。これは。ほーんと天才ねー。なんでこんなにうまいんだろう(ほとんど加賀四郎だ。これは)。
 少しは不出来の門弟どもにもわかったかねえ。一人称の方はまだ比較的わかりやすいと思う。しかし三人称でたとえば、
(1)「Aは怯えた表情で一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させたかと見えた
(2)「Aは怯えて一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させたようだった
(3)「Aが怯えたように一歩あとずさった。それがいっそうBを激昂させた
 これわかるかな。「神の三人称」(つまりまったき作者の視点ね)のときは、全員の心理感覚に立ち入ってしまうか、ないしは完璧に外側で止まる。「怯えた表情」はどこからでも見える。「激昂した──かと見えた」で見てるのは作者と読者。
 ここで、「Aは怯えてあとずさった。それがBをいっそう激昂させた」と完全に入る方をとってしまうと先生のような天才は別として(先生クラスのテクの持主は何やってもよいのだ)ふつうは混乱するか、共感の効果が減殺されるか、ウルサくなるからおすすめしないね。
 (2)では、Aは「怯え」を感じた。しかしBの激昂はAの目をとおしてしか、読者にはみえない。だから「ようだった」となる。反対に(3)にくると「怯えたように」がBの目をとおして見え、それがBを「激昂させた」わけだ。いやーうまい。完璧。何たる理路整然。すごい。
 この視点は短編・中編は原則として途中でかえぬほうがいい。読者はある一つの目を通してのみ、その話の世界に入り込むことによって、誰に共感してよいかがわかりやすくなる。一人称のときは長短編をとわず当然そうである。この主人公がいないときの話したいからって、突然三人称になっちゃダメよ、諸君。そういうときは「ぼくはあとになって知ったのだが云々」と言いわけするとか、人から話できくかっこうにするとか、同じことだが「彼は怯えてあとずさったのだそうだ」と伝聞形にしておく。とにかく一人称である限り決して、その人のいないところ、能力以上のこと知らぬはずのことは見きき経験できぬと思うこと。その点で一人称というのは、どうしても幅のせまくなる方法である。一人称のメリットは、「──とぼくは感じた」とずっとやれるから、主人公に読者を同調させやすくなること、主人公の経験したり感じることをリアルにうけとらせること、ことに主人公の心理をたやすく納得させられること、など。デメリットは一人の人間の体験に限界があることと、一面的にしか書けないこと、主人公に同調せぬ人には小説そのものがとても受け入れられにくくなってしまうこと。が一人称ってのは、かけ出しの諸君にも視点の乱しようがなくて(ふつうはね)わりと視点が統一しやすい、よい方法。はじめは一人称から書くのが身のためです。
 それに準ずる「三人称・一人の視点」だが、これはわりと一般的な方法だ。私の考えでは、長編のばあいには、むろんかなりの長さをとってだが、一シークエンスで視点をかえることは許される、と思っている。ただし、ひとつの同じシークエンスの中ではやめるべきだ。この一シークエンス一視点制をとると、いろんなところへゆき、いろんな組合せが書けて一人称よりグンと自由になる。しかしこの方法はまず、それぞれのシークエンスで決して視点が乱れないこと、完全にキャラの性格心理のくっきりした書きわけができる筆力のあること、これを効果をはかってつかえるだけの構成力があること、が条件となる。滝尾一級にはまだすすめられない。変えぬ方がいい。
 そして「神の三人称」──これが一番難しく、そして一番何でもやれる方法である。長い長い物語、入りくんだ話、たくさんのキャラが出てくる話、はこれをとらないととても書けない。『グイン・サーガ』もこれだ。『魔界水滸伝』は安西雄介の出てくるときは大体雄介の視点をつかいつつ、七割方は「神の三人称」でいっている。江森二段の今回の『小JUNE』デビューの『私説三国志』も、基本はこれで、その中でかなり多く孔明の視点、ついで周瑜の視点、[非<木]妹の視点、とかなり自由自在だ。がさっきも云ったとおりうまい人は何をやってもいいので、江森二段くらいの筆力がまずその「何をやってもいい」の最低必要条件と思う(これでも時々乱れが目につく)。大体一級以下の諸君は、一人称か完全に一人に絞って決して他へゆかないか、あるいは決して誰の内面へも入らぬ神の三人称、すなわち「物語の視点」をとっているのが無難と思う(まあすべての心理へ立ち入る方のは「近代心理小説の視点」といってよかろうと思う)。これは諸君の考えていることより重要なことなので、いまはわかんなくてもとにかく「視点の統一、視点の統一」と三回となえてから書くようにしてほしい。今回はかなり高度の講義をしてしまったので、門弟ども、わかったかどうか心配である。
中島梓『新版・小説道場(1)』、光風社出版、126-132頁。上記引用文中の斜体部分は原文では傍点、カッコ数字は丸数字。)

*1:江森備

*2:滝尾令以子

*3:引用個所の直前で、「程」「様に」「位」はぞれぞれ「ほど」「ように」「ぐらい」とひらいて書くように指導している。