智代アフター体験版(その2)

 昨日の補足。
 http://key.visualarts.gr.jp/newsoft/index.htmの「ストーリー紹介」を読めばわかるのですが、ともは母親に置き去りにされているわけです。で、その母親がどうやらどっかの山中の村にいるらしくて、もしかしたら宗教か何かにすがってるのかも、とかその程度の話でしかない、今のところ。
 で系譜を指摘しておけば、『MOON.』の天沢郁未、『ONE』の折原浩平、『AIR』の国崎往人の母親がそれぞれ、宗教だかなんだかそれっぽいもののために子供の前から姿を消しています。宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。

竹宮ゆゆこ『わたしたちの田村くん』『わたしたちの田村くん2』

 発売直後に読んではいたんだけど、感想書くにはこのくらい時間がかかりますよ、というわけ。

・『わたしたちの田村くん
 田村くんが走る話。
 どうやったって、三年前の松澤のところへ駆けつけることはできない。いくら走ったって間に合わない。そしてまた、相馬の不登校の一年はどうしようもなく先行する事情だ。
 物語学的運動が開始されるためには差異が必要だ。落差が、何らかのギャップが。ガンダムでいえば、アースノイドスペースノイドの差。コロニー/地球、オールドタイプ/ニュータイプナチュラル/コーディネイター。この点でガンダムXの批評性が際立(略)ボーイミーツガールという物語が(略)。『田村くん』においては、この差異は、女の子の内面に対する男の子の「遅れ」である。

《しかし、もっと根本的なところで、ここには受け身の構造がある。女の子の内面に気づかされてしまうという形で、自らの〈傷つける性〉を自覚し、その結果自分の行動が規定されている。ここに、根本的な受動性がある。
 この受動性は、そもそも、〈気づいてしまった〉という行動がもっている受動性だ。そういう形で、なにかに出会ってしまっている。出会うということは、出会う以前からそれが先にあったということだ。だから、女の子の内面というものが先行しており、男の子は後から遅れてそれに気づいてしまったのだ。受動性とは、遅延なのだ。
 そうして男の子は、遅れる。》(ササキバラ・ゴウ傷つける性 団塊の世代からおたく世代へ ──ギャルゲー的セクシャリティの起源」、『新現実』vol.2)

 「傷つける性」についてはよくわからないが、気づいてしまうことの受動性と遅れは疑いなく田村くんにもあてはまる。ここで竹宮ゆゆこエロゲーササキバラ・ゴウのいう「ギャルゲー」はこちら)のシナリオライター出身である、ということに触れておく。みんな知ってるだろうけど一応。

 そして『わたしたちの田村くん』、ないし田村くんにあっては、「走る」とはつまり、先行する女の子たちの事情だか内面だかに追い付くための魔術的儀式である。そしてまた、走る(駆けつける)、というのが単なる比喩を越えて文字通り松澤や相馬のもとに走って行ってしまう、という直截さ・みもふたもなさ・あけすけさが、この作品の魅力のひとつだ。田村くんは自転車に乗りさえしない。
 だが、なぜそうも見事に駆けつけることができるのか。田村くんは、あえて言うなら、無駄に優しい。もちろん結果としては必ずしも無駄になっていないのだけれど、それにしても、松澤のことを考えて家族の食卓でひとり涙したり、うっかり相馬を傷つけてしまったと思い一晩眠れなかったり、そんなことに一体どんな交換価値があるだろう? もちろん女の子たちはそんなの知ったこっちゃないし、家族は不審がるだけだ。
 田村くんが駆けつけることがいちいち女の子にとって救いになっている、というのは御都合主義でなくはないのだけれど、むしろそうして空回りしがちな田村くんであるがゆえである、という点が好ましい。唐突な思い込み、あてにならない思いつき、大半は無駄になるだけのそんなもののおかげで、田村くんはこの上なく見事に「間に合って」しまうのである。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる。いや結構危なかったけどね。

・『わたしたちの田村くん2』
 今度は女の子(たち)が走る番。これで平仄が合う。
 願わくば、ペースの合わぬガキ共に、少しでも多く衝突の機会が与えられんことを。

 かれらのペースが合わない、という話は最初から出ていて、これもやっぱり文字通り、グラウンドのトラックを走るペースが合わないのである。松澤の背中はみるみる小さくなり、やがて背後から足音が近づいてくる。周回遅れの邂逅こそが狙い目だ。
 バスを追って走る松澤はつまりを田村くんを追いかけて走っているのだけど、田村くんにしてみれば、やっぱり松澤は先を行っていて、ただ周回遅れの自分に迫ってきたってことになるのだろうなあ。とわざわざ書くのも野暮だが。

 田村くんは生きているんだもん。幽霊みたいな私のペースに合わせてもらうことなんてできない。そう松澤は言った。もちろん田村くんにしてみれば、ペースが合わないのなんて最初から前提で、だからこの点は松澤のほうが送れている。グズ助呼ばわりも致し方あるまい。

 このあたり極めてテーマ主義的というか、繰り返すが直截的な表現であるように思うのだが、あまり触れられていないようなので書いてみた。
 あと、世界の全てはつっぱしるガキどものためにある、と言っておいて、しかしガキの経済力じゃ遠恋は厳しい、とオチを付けるあたりのバランス感覚もいい。

 どうでもいいが、グズ助、という言葉が妙に愛しくなってしまった。なりません?