スピノザの哲学を汎神論と呼ぶことにもスピノザを汎神論者と呼ぶことにも異論はない。ついでに無神論と汎神論を区別することにも異論はない。
 ただ、語の使用において、スピノザに対して汎神論という語を用いなくてもいい場合もある。ついでにカギカッコつきで「無神論者」と呼ぶのも問題はない。というかスピノザ無神論者と考える専門家は少なからずいると聞く。要は文脈次第である。
 スピノザは「無神論者」だった』という文を考える。この文の意味するところは『スピノザ無神論者だった』ではない。『スピノザ無神論者と呼ばれた』である。詳しくは『スピノザは通常、またはある特定の文脈では、無神論者と呼ばれる』等である。引用符だからね。書き手がどう考えているかはその時点では保留した物言いである。ちなみに文脈如何ではカギカッコを省略してもそういう意味になる。文中二回目以降に登場する場合とか、あるいは後から補足なり註釈なりが入ったときとかは要注意だ。重要だからここアンダーライン引いとけ。(ちょっと話を広げすぎたので取消)
 
 もちろん、スピノザで神といえば普通は汎神論だろう、とは思う。が、汎神論という語をどうしても持ち出さなきゃいかん、というほどでもない。
 上野修はおそらく日本におけるスピノザ研究の第一人者だが、その『シリーズ・哲学のエッセンス スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版)には、汎神論や汎神論者という語は一切登場しない。むろん、スピノザのいう神はキリスト教通常の超越的人格神とは違う、とは断られるのだが、特に汎神論という語は持ち出されないということだ。
 いったいスピノザについて汎神論なる語が登場するのは、後代の汎神論論争以降の話であり、したがって、そうした文脈を視野に入れるのでなければ、スピノザに言及するにあたり汎神論という語を付すことにそんなに意味はない。上野書は、スピノザはなぜかかる奇妙な書物を書いたのか、という問題設定によるものだが、この場合、後代の汎神論論争以降の流れに言及する必要はべつにない。まあ先行研究としては参考になるかもしれないが、ならないかもしれない、また参考にするにせよ鵜呑みにする必要(「汎神論」という評価を採用する必要)はない、という程度であろう。文脈次第ってのは例えばそういうことです。

 余談。スピノザ無神論者と呼ばれたのは、彼の汎神論が無神論に入れられたからではない。彼の説いた汎神論(という語なり概念なりが当時あったかどうかは知らないが)が、偽装された無神論である、と言われたからである。(これも関係ない話だった)