http://d.hatena.ne.jp/kaien/20040419#p3
 叙述の順序が時系列順になっていないと、それだけで内輪受けの程度のことで、いちいち騒ぐこともあるまいと思う。どうせ観てれば判るのだし。いちいち説明してからやられちゃあまだるっこしくて仕方ない。とりあえず先に1エピソード見せておいて、説明を後回しにするのが(回想的に挿入するのが)そんなに問題かと思う。とりあえず視聴者のアタマん中にクエスチョンマークを飛び交わせることによって興味を引く、というのだって珍しくもない話です。個人的には、あれをいちいち時系列順に逐次的に説明されたら「まだるっこしい」と投げ出すところ。

 それに1話において必要なのは何より「旅立ち」のイメージで、電車の音からあの駅のシーンへ繋ぐあたりは、むしろ隙のない構成と言うべきだ。

 単なる説明のためのシーンにしちゃうとつまんないからとりあえずスク水着せておく、というのは方向性はともかく発想としては嫌いじゃないです。また、単に時系列順に説明してったんじゃつまんないから、とりあえず叙述の順序をシャッフルしてみる、という程度でも。単に視聴者の理解のためだけに逐次的に説明していく、なんて行為こそが、「説明的」だの「事務的」だのと批判されてしかるべきでしょう。
 個人的には、http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/EVILTEXT.htmlの「4」を挙げておきたい。

 ……『ヒッチコック映画術』 で、トリュフォーという人が序文にこんなことを書いています。
「(……)ところがヒッチコックは、彼の映画群をずっと追って見ればすぐ気が付くことだが、映画に手を染めてからずっと、どんな瞬間もとくにきわだった瞬間であるような映画、彼自身の言うところによれば、『ボコッと穴があいていたりしみなんかがついていない』映画をつねにつくりあげようとしてきたのである」
 また話はかわりますが、赤瀬川原平という人が、こんなことを言っていました。野球でピッチャーの仕事はストライクを3つ取ることです。ところが普通のピッチャーは打者をうちとるための球を1つか2つしか持っていません。そこであとの1球か2球は、ただストライク・カウントを増やすだけの球、赤瀬川氏いわく「ストライクゾーンにただ置きにいく球」になるわけですが、そういう「退屈なボール」はやっはり打者に打たれてしまいます。文章を書くにも同じことがあって、普通作家は300枚とか50枚とか書けば仕事になるのだけど、本当はその1/3〜1/100くらいしか書くことがないのです。そこで「原稿用紙にただ置きにいくだけの言葉」を書いてしまいます。それはプロットの進行上必要な「つなぎの言葉」だったり「説明」だったりするのだけど、そんな「退屈な言葉」はやっぱり、「ボコッとあいた穴」だったり「しみ」だったりするのです(ここから言うのは悪口ですが、「ストライクゾーン」知ってるというだけで、自分は「書ける」だなんて思っていやがる連中がいらっしゃいます。お前らの投げる球なんて、ホームベースにだって届かないじゃないか、です。次に打者をうちとるには、ただストライクゾーンにボールを投げれていればいいんだと信じてる輩です。おまえなんかめった打ちだ、です。悪口終わり。でもこれに該当する人って、この悪口が何のこと言ってるのか、第一自分のこと言われてるのかどうかも、分からなかったりするのです。もうつかれました。De te fabula narratur!(これはおまえのことだぞ!)。悪口本当に終わり)。
 さあ、まとめです。トリュフォーがいうには、ヒッチコックはそんな「ストライクゾーンにただ置きにいく球」なんか絶対投げなかったし、投げる気もさらさらありませんでした。「映画の文法や演出の正攻法なんかに固執する保守的な連中」に、おまえの映画はありそうもない事の連続だ、シチュエーションがあまりに不自然だ、漫画だ漫画、と言われても、ヒッチコックはそんな「らしさ」なんかまったくお構いなしでした(だって連中はただ「映画の真似」をしてるだけだから)。