地上最大のロボット

 手塚治虫には『ファウスト』や『罪と罰』のマンガ化の仕事があり(そういえば絶筆は『ネオ・ファウスト』だ)、また『ブラック・ジャック』や『鉄腕アトム』のいたるところに文学の意匠の借用を見ることができる。『アトム』についていえば、「アトム今昔物語」がタイトルに反して『風と共に去りぬ』の筋とキャラクターを拝借しているのは周知のとおり。ほかに『イワンのばか』や『ロビオとロビエット』なんてのもある。勿論『アトム』がその意匠を借りた先は文学とばかりは限らぬが、たとえば手塚治虫が『地(史)上最大のロボット』で何をやりたかったのか、ということを考えるときに彼の文学趣味を除外すべき合理的な理由はない。少なくとも、『地上〜』を単なるロボットバトルものととらえることはできないと思うのだよ。このことは、『ロボイド』や『ソロモンの洞窟』あたりと読み比べてみればはっきりするだろう?
 ところで「傲慢の罪」(ヒュブリス)とはギリシア悲劇では御馴染みの概念である。たいてい過大な罰を受ける。ジョ−ジ・スタイナーの言を借りれば、神々と人間の貸借勘定は合わないものなのだ。

 …………

 飽きたのでこのへんで。まあなんというか、『地上最大のロボット』はどうもギリシアの悲劇詩人みたいな線を狙ったんじゃないかとかそのようなことが言いてえ。少なくとも一面において。あと傲慢の罪云々は単なる連想で、むしろ『イーリアス』がつまり神々に操られている人間を描いた悲劇である。人間は、自分の運命を、あるいは自身行動と意志のよってきたるところを、理解することも支配することもできないと感じている。このあたりは『クビキリサイクル』でもちょこっと触れられてたと思うけど。ロボットたちがなぜ憎しみもなしに戦わねばならないのか、誰にもわからないことになっている。ロボットを操っているのはここでは神々ではなく人間であるかもしれないが、どうもロボットたちは人間のあずかり知らぬところで戦うことを思い決めてしまっているようなところもあり印象は複雑だ。単なる御都合主義といってしまえばそれまでだが、かの巨匠がやらかした数々の御都合主義に比べてあまり嫌味が感じられない部分である。まあそれはそれ、で、そして人間もまた別のロボット(ゴジ博士の中の人)によって操られている。「なんだか夢みたいに事件がおわってしまったな」とお茶の水博士はいう。説明を、あるいは正義の応報を求める声に、雲界の底にくだけ散り消え去ったプルートウ(たち)が応えることはない。「かれらはいつさばくのだろうか」。ああ結局続けてしまった。