http://www2.realint.com/cgi-bin/tarticles.cgi?kenseikaien+297

《自分も国家テロ組織の一員でありながら、敵対するテロ組織に対して「とにかく最低な連中さ 思い切りこらしめてやりたい」などと語るジョゼの頭の悪さは、さすがに意図して描かれたものだと思います。》

 これについては、言って置かなくてはならないことがいくつかある。まず第一に、ジョゼのセリフは「思い切りこらしめてやりたい」ではない。第二に、敵対するテロ組織どうしの人間が「向こうもこっちも同じテロ組織なんだから、あんまりひとのことはいえんよなあ」などと言い出すはずがない。第三に、ジョゼが「最低な連中」と語るエンリコ達は、ほかならぬ「敵対するテロ組織」たる五共和国派のメンバーからも蔑まれている。

 海燕氏の発言はいちいち疑問で、《作者の設定ではジョゼはただのあほや偽善者ではなく、矛盾した状況に置かれて真剣に苦悩する若者であるということはわかるんですよ。》だの、《この作品は「幸福」という概念を相対化するようなセンス・オブ・ワンダーを目指しているのかもしれません。しかし、僕はそれには失敗していると思う。》だの、《ドラマの質が致命的に薄すぎる。もちろん作者はクールでハードボイルドな描写を良しとしているのかもしれないけれど、その結果として作品全体がどうにも薄っぺらになってしまっている》だの、作者の意図の決め付けと、ないものねだりの羅列。わからないなら、わからないと言って済ませればいいのに。「この作品はこうなっていなければならない。そうなっていないのは作者が失敗したからだ」という言い方は随分と便利である。

 義体少女たちの「過去」が描かれるべきだ、とか、担当官との「ドラマ」がもっと描かれるべきだ、といった見解にはどうにも同意しかねる。

 たとえばトリエラの──こういうとき決まって持ち出されるのがトリエラであるのはあまり好きではないが──「私には何を演じてほしいのだろう」という戸惑いに着目してもよいように思う。明確な過去と明確な現在の関係性(=ドラマ)によって、いいかえれば「わかりやすいお話」にしてしまうことによって、消去されるものもある。
 『ミノタウロスの皿』みたいな「わかりやすいお話」を求めるのは僕にいわせれば随分な話だ。まあどうやら、色々な読み方を許容するような作品であることが気に入らぬ、ということらしいのだが(作品については)。これは、立場が宙吊りにされる緊張感に耐えられない、ということでもあるだろう。大仰な言い方になってどうもアレなのだが。

 一方で、《一部の読者はこのあらたな「萌え属性」に興奮しつつも自分はなにか重くシリアスな物語を読んでいるのだという満足感をも得ているのではないか。》という指摘はたぶん正しい。ロボットアニメの歴史を参照すれば、『ザンボット3』で、「一般人に石を投げられる主人公」も、「人間爆弾」も、みんな死んでしまうこと、も、結局はたんなる差異として消費されたのだから。このことはガンダムにもそっくりあてはまるので、二十年前に通過した道だ、と答えるしかない。ついでにいえば、松本清張の「社会派」ミステリの読者にも、『あらたな「萌え属性」に興奮しつつも自分はなにか重くシリアスな物語を読んでいるのだという満足感をも得ている』という指摘はあてはまるだろう。
 「シリアスなテーマの物語であるという弁解を得」たロボットアニメが、さんざん子供に人殺しをさせてきたことについて、僕は正当化しようとは思わない。ただ、《ヘンリエッタやリコの自由意志や生命や権利があきらかに侵害されている以上、「彼女たちは幸福なんだから」という一事ですべてを容認するのは無理がある》のは確かにそうなんだけど、すべてを否定するのもためらわれるところではある。ためらわれるっつーか、しのびないっつーか。「否定できない」ということでは決してなくてね。

 思い出した文章があったので、URLを貼っておく。
 http://www2.odn.ne.jp/~aab17620/d9909-1.HTM#9.1
 http://homepage2.nifty.com/kotenmura/norinaga/shibun-2.html