うえお久光『紫色のクオリア』

 とりあえずメモ。
 
 ありえないことに、ヒジョウに真面目(と書いてハードボイルドと読む)。いや「ラブレターズ」があったか。しかし俺らのうえお久光の美質は、あのジャストボイルドな感じではなかったか。別に作風を固定すべきだとは言わないが。その意味で「×法××」のくだりはよかった。というかうえお久光の諸作のなかでとくに傑出しているわけではないよね。ぼくは『魔法カメラ』がいちばん面白いと思うけどさ。ジャンルの枠だの何だのという話なら尚更。俺らのうえお久光なら、SFというジャンルをまるで信用してない作品が書けたはずなのに、なんで「SFだ」なんて賞められるようなのを書くかな。面白いからいいけど。
 
 一章。玩具修理者っつうより直死の魔眼かしら。そのように認識するからこそ対象をそのように処理できる。犯人との対決なんて、まんま「教えてやる。これが、モノを殺すっていうことだ」じゃん。
 たまに言いたいのだが、クオリア云々なんて、友達のために心を痛めたテンちゃんが切実に必要とした理窟であってそれ自体として論ずべきものじゃない。または、「並行世界・観測者・クオリア」という三題噺として。いやもちろん毬井の抱きごこちの質感とかは超重要ですが。

 二章。スマガに始まりデモンベインに終わる、みたいな。旧神エンドで機神飛翔で軍神強襲な。あと並行世界の自分と通信/協力、というのは神林ラーゼフォンにあった気がする。が挙げるとしたらやはり『虎よ、虎よ!』で、二章はたしかにワイドスクリーン・バロックもかくやの派手さだがそんなことより何よりこれは一種の復讐譚なのである。目的のため名を変え姿を替え別人に変身するのは復讐者の基本だ。そして目的の成就の失敗・遅延と試行錯誤のプロセスこそが物語の全長をなす。
 あと『バイオレンスジャック』の飛鳥了がガクで不動明が毬井さんなわけね要するに、とか。親友の死を否定するために並行世界を作り出す、という意味では身堂竜馬。あるいはいっそ、『ロボットと帝国』『ファウンデーションと地球』。一介のロボット(!)にすぎぬダニール・オリヴォーが、パートナー・イライジャの死に耐えかねてとうとう人類の進化を司る神になってしまったような。

 ガクちゃんがやっていたのは試行錯誤ではなく魔術的儀式である、という話はしておきたい。どう頑張っても無理なものは無理だが、それでも何かすれば結果が伴うような気がする。雨乞いの儀式とか。それはせいぜい、雨が降って欲しいという気持ち、の表明にすぎない。だからこれは根本から間違ってるけれど、愛の告白としてはこの上なく成功してはいるのである。たぶん。