『涼宮ハルヒの憂鬱』#1・#2

#1「朝比奈ミクルの冒険 Episode 00」

 原作でもこのエピソードのキョンの語りの位置付けはいまいち不明である気がするのだが、試写会というシチュでそれをうまく再現したなと。という解釈でいいのかしら。
 ところで『溜息』が大好きな私としては「ああ、あのへん撮ってるときにああいうことがあったんだよなあ」と感慨もひとしおでしたが、何も知らずに観た方々はさぞデヴィッド・リンチの映画を観るがごとき悪夢感をおぼえられたことでありましょう。それはそれで体験したかった気もしますが。というか体験したかった。これは#4でも思ったんだけど。

#2(第一話)「涼宮ハルヒの憂鬱 I」

 ちゃんとツバ飛んでた*1。いいなあ。
 それはそうと、原作のこの描写が削られていた(というか差し替えられていた)のには、ちょっと解せないものがある。

 俺の脳裏には、真っ暗の校庭に真剣な表情で白線を引いている涼宮ハルヒの姿が浮かんでいた。ガラゴロ引きずっているラインカーと山積みにしている石灰の袋はあらかじめ体育倉庫からガメていたんだろう。懐中電灯くらいは持っていたかもしれない。頼りない明かりに照らされたハルヒの顔はどこか思い詰めた悲壮感に溢れていた。俺の想像だけどな。
 たぶん涼宮ハルヒは本気でUFOあるいは悪魔または異世界への扉を呼び出そうとしたのだろう。ひょっとしたら一晩中、中学の運動場で頑張っていたのかもしれない。そしてとうとう何も現れなかったことにたいそう落胆したに違いない、と根拠もなく思った。

 ここでキョンは、誰も見ていないハルヒの顔を自分だけは知っている、みたいな気になっているわけである。人づてにハルヒの中学時代のエピソードを聞いただけでこれとは、随分といえば随分な思い入れっぷりだ。
 一方でアニメのキョンはといえば、屋上やらプールサイドやらに立つ、現実のハルヒを目で追っている。そしてかわりに脳裏に浮かぶのは「ふつうの人間の相手をしているヒマはないの!」と男を振るハルヒの姿。普通に生臭い。
 このように差し替えてしまうと、キョンがなんでハルヒにつきまとっているのか、という部分のニュアンスがけっこう違ってくる気がするのだけれど。
 このあたり、冒頭の男子便所女子便所もそうなのだが、なんというか地上的な男の子と女の子の色恋方面へシフトしようというねらいがあるのでしょうか、アニメ版は。
 そういえば、やはり石原立也コンテの『AIR』#1も、往人さんの側の事情はまるで気にしてなさそうなつくりでした。ただの旅人とちょっと変な女の子が出会っただけの話、に見えるのはいっそ幸せかとも思うけれど。
 好意的に解釈すれば、導入ではあまりディープな部分には踏み込まない方がとっつきがいい、という作り手側の配慮なのでしょうけど。
(追記)
 つまり、中学時代のハルヒの話を聞かされた時のキョンの反応がぜんぜん違う。原作でキョンが興味を持っているのは、校庭に図形を描いたりする奇行やその目的のほうで、だから上に引用したような思いの馳せ方をしてしまう。だが、アニメ版のキョンは現在のハルヒの姿を目で追うのに忙しく、ハルヒ異世界人を招喚しようとした話なぞは上の空で聞き流している(!)。そして、話がハルヒの過去の色恋沙汰に及んでようやく興味を示し、男を振る姿を思い浮かべたりする。つまり、現実的な色恋方面へと限定ないし強化されているといえる。非現実を希求するハルヒへのへのシンパシイは薄れ、かわりにただ現実のハルヒと向き合う。これが原作どおりの『憂鬱』のラストへ向かうとしたら、ちょっと救いがなさすぎる。