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>ほら、まだあるはずだ! 考えれば! 
 
 じゃあセルバンテスドン・キホーテ』とか。騎士道オタに対するツンデレっぷりたるや。あるいは登場人物に対して、そしてたぶん古きよきスペインに対して。と岩波少年文庫版の『ドン・キホーテ』のあとがきを読んで思ったりしたわけです。
 もっとも、『ドン・キホーテ』はそのへん両義的なので、ツンもデレも一義的に「好意」というストーリーに回収されてしまう(というより起源とする)ツンデレさんたちとは、似て非なる代物であるかもしれない。

 ところで、ドン・キホーテは滑稽であると同時に高邁だし、サンチョ・パンサの吐く卑俗で脳みそ足りなさそうな言葉は、同時に深い人間的な知恵を宿している気もする。かれらは愚かであると同時に賢明であり、嗤われるべきものであると同時に愛すべきキャラクターである。《こうした、どっちつかずのあいまい性、というよりは、両方の同時的認識にこそ、『ドン・キホーテ』の大きな特徴がある》(牛島信明岩波少年文庫版『ドン・キホーテ』あとがき)。
 ところで、同時的認識、という言い方で私が思い出すのはむしろ、W.H.オーデンの『第二の世界』において引かれていた『ニャウル伝説』の次の一節である。柄谷行人「夢の世界」からの孫引きか曾孫引きになるが、

髪は巻き毛で栗色、眼も美しかった。顔色はとてもあおく、鋭い目鼻立ちをしていた。鉤鼻で、出歯のため口元はみにくかった。彼は徹頭徹尾、戦士だった。

 ここでは「眼が美しいこと」「口元がみにくいこと」「戦士であること」はどれも等価値かつ併列的である。おそらくはアイスランド・サガの作者はそれらを「同時に」見る目を持っていたのだろう。
 だがそれを読む我々の解釈は、上の文章すら「眼は美しかったがしかし口元はみにくかった」とか「英雄にふさわしく眼は美しかったが一方で口元は醜く、彼の内心の卑しさをのぞかせていた」とか、そこに矛盾や対立や落差や内面の本質の説明やらを、見出してしまうだろう。
 我々はツンデレさんのツンとデレをこの意味で同時的に認識することができない。このことには原理的な理由がある。
 なんとなれば、我々がそれを「(素直になれない/隠された)好意」として見出すことが権利上先行するのであって、そこに矛盾や対立や落差がある(彼女はツンデレさんである)と前提されたあとで、ツンだのデレだのがキャラクターの言動から思い思いに抜き出されるのであるからだ。要するにツンとデレがツンとデレとして見出されるためには、先んじてツンデレとされる必要がある。「ツンデレ」を説明するにあたり『まずキャラに「ツンツン」と「デレデレ」の落差があって……』といった言い方を取ることは、それが我々の解釈行為に依存する概念であることを隠蔽することになるだろう。ギャップ萌えについては、それは「ギャップ萌え」という萌え方の一形態を分類するものであって、「(キャラクターの言動に、あらかじめ)ギャップがあるから萌える」という説明に用いるならそれはひどい誤りだ。ここにあなたがいないのが寂しいのじゃなくて、ここにあなたがいないと思うことが寂しい、という昔の流行歌の表現を借りれば、ギャップがあるのが萌えではなく、ギャップがあると思うことが萌えることなのだ。もちろんこんなことは世のツンデレ萌えの巨匠たちには常識以前のことだろうけれど。