『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』

 唐突さが足りない。いいかえれば彼女たちの不器用さが。あるいは言葉の届かなさが。随分と器用に口が回るし、人の話を聞いている。いやこいつらもっと、わけのわかんないこと口走っちゃったり人の話聞かなかったりしただろ。それに、もっと余裕なくて、切羽詰まった感じでさ。なんでこんなに誰にでも意味が通るような言語化、ができてんの。
 言葉は届かない。あるいは届いても通じない。話してもきっと意味がない。ただの甘ったれた子だ、なんて言われてるうちはきっと無理。話してみなければ、言葉にしなければわからないことがきっとある、けれど、自分の気持ちだってうまく言葉にできない。ただわけもわからず、相手のことが気になって仕方ない。それこそがTV版「1st」ではなかったのか。
 彼女たちはもっとこう、言いたいことがあるんだけどうまく言葉にならない、あるいは心中語や独語にとどまり相手の耳には届かない、時にきちんと順序立てて話せるときもあるけれど、その裏にはぜんぜん別の、ひどく不器用でシンプルな想いが隠れている。言葉ではどうしようもないから拳で語るしかない、のではなかったか。だのにこれはなんだ。
 
 「どうして、そんな寂しい眼をしてるのか」と、面と向かって言えちゃうなんて!
 
 アルフは相変わらずいい奴だった。でも#8のアレが削られてるのが納得いかない。アルフがどんなに言葉を尽くし心を込めて訴えても、ただフェイトに笑っていてほしい、ということだけが絶望的に伝わらない、あのシーン。
 
 観るんじゃなかった。どうもお呼びではなかったらしい。A'sが一番好き、という人にしか薦めない。第一期のあの微妙に暗くて切羽詰まっててモヤモヤした感じ、はやはり新房監督だからこそできたのか。A's以降だと、登場人物のセリフは額面通りに受け取って問題ないんだけど、第一期は実際の発語とモノローグが輻輳し、さらには常に一番大事な何かを言い損ねていて、言葉通りに受け取るわけにはいかない、そういう繊細微妙にして複雑な味わいがあったわけです。「つながらないことば、届かない想い」。「わかりあえない気持ちなの?」とかまあそんな感じで。しかしそういう芸当は草川啓造には(というか都築真紀にも)期待できるはずもなく。第一期のあのテイストは、都築真紀の考えたセリフを、意地悪く裏読みできるように演出した結果じゃないかという気がするといえばする*1
 
 とりあえず、俺の第一期の感想を貼っておく。こういうニーズには応えていないようだ。
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20060130
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20060131
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20060206

 些細だが決定的な差異。TV版では届かなかったフェイトの「ごめんね」はなのはに届く。だから劇場版のなのはは、あのとき「ごめんね」って言ってたから、優しい子であるにちがいない、という理路を経る。けれども僕が好きだったのは、そんな根拠などなしに、「なにも分からないけど、綺麗な眼をしたあの子が気になって仕方がない」(鋼屋ジン)という点だ。例えば同い年くらいに見える、とかそんな些細なことが重要だったはずだ。そして、なんだか淋しそうに見える、というのはどうしたってなのはさん自身の寂しさが投影されていたろう。
 「友達になりたいんだ」。セリフこそ同じだが、そこに至る過程がまるで違う。第一に、TV版では唐突な覚知として訪れたその瞬間に言ってしまうので、なのはさんの言葉はとうぜん唐突でもあれば違和感もある。自分の中でもこなれていない言葉を発するつねとして、おずおずと、ためらいがちなニュアンスである(僕にはそう聞こえる)。だが劇場版ではその違和感が消されている。友達になりたいのだと気付いて、頭の中で言いたいことをまとめて、それからフェイトちゃんに告げる、というタイムラグがある。言い換えれば余裕が。「フェイトちゃんに言いたいこと、やっとまとまった」とかご立派な前置きのあとで、ほとんど誇らしげに「友達になりたいんだ」とか言われても、その、なんだ──困る。
 
 「わたしがあなたの娘だからじゃない、あなたがわたしの母さんだから」という意味不明なセリフは、「母さんには笑っていてほしい」という誰にでもよくわかるセリフになってましたとさ。その前後にしろ、TV版の方が、言いたいことがあったはずなのにいまいち気持ちに整理が付いてない、みたいなリアリティがあって良かったと思うんだけどさ。
 
 プレシアの最期。最後くらいはアリシアのことを考えてやれよ/考えさせてやれよ、としか思わない。フェイトにはもうみんながいるんだから。フェイトのために敢えて拒絶してみせた、というのは僕のTV版の解釈と変わらないんだけど、より明確になっていた点は悪くない。良くもないが。

 最終決戦。そこは「あの子だって限界のはず」じゃなくて「あの子だって耐えたんだから」じゃないとだめでしょーに。あのフェイトが子供じみた対抗意識を燃やしてるってのがいいんであってさ。
 最終決戦の何がいいって、フェイトの頭から母親のことやジュエルシードのことが抜けていって、目の前のあの子に負けたくない、という気持ちが芽生えてくるところでさ。あと、ファランクスの直前も劇場版では「必ず勝って母さんのところに帰るんだ」(うろ覚え)なんて不粋な改変をされていたが、やはりここはTV版と同様、なのはを対等の敵手と認め(「迷ってたらやられる」)たゆえの選択、であって欲しかった。この期に及んでまだ、なのはのことを見ちゃいねえのか。もっと純粋にファイトを楽しめ。
 まあここからは俺の妄想だけどさ、なのはと戦っている間だけは、フェイトちゃんはもしかしたら母親のことを忘れることができたのかもしれない。だって余計なこと考えてるとやられるから。そのことは彼女に、母親との関係が全てではない、という可能性を感じさせるものだったかもしれない。だから最後に「ありがとう、対等に向き合ってくれて」と彼女は言うんです。
 
 それにしてもなのはの描写が足りてない。これじゃどういう子かわからないよ。一人で抱え込んでモヤモヤしちゃう子だから、結論が出ない状態でずっと考えてるような子だからこそ、一人でさっさと結論出して、都合の悪いことは考えないようにしてるフェイトと対峙させる意味があるわけでしょ?
 TV版のなのはさんときたら、もう拳で語り合うしかない、このまますれ違ったまま終わったらわたし死んじゃう、ぐらい切羽詰まった顔をしている。フェイトちゃんのことを「寂しそうなの」なんて言ってるけれど、あんたこそ今にも泣きそうじゃないかと想う。劇場版のなのはさんがただのいいやつにしか見えない、という評をどこかで見かけたがなるほどと思う。
 
 戦闘シーンは退屈にもほどがあった。火力と防御力で勝るなのはに対し、フェイトのアドバンテージは機動力すなわち格闘性能と回避性にある、というのは常識だと思うのだが、なんか差別化されてなかった気がする。あと「知恵と戦略」とかいってたけど、TV版のがよほどそれっぽいのはどうにかならないのか。全身全霊を賭けた知略戦、はTV(と小説版)でやったから、劇場ではド派手な力勝負、でいいじゃない。しかし、互いのスペックを鑑みるに、もっとこう、トールギスVSゲッター2、みたいになるはずなんだが。とイマキは詮無いことを述べます。あるいは緋村剣心VS瀬田宗次郎じゃないのか。キャラ的にも被るし。劇場版はせいぜいストIIリュウとケンぐらいにしか差がないみたいだった。白い服で飛び道具と防御力に長けているほうと、金髪で直接攻撃と機動力に長けているほう、と書くとわりとそれっぽいけど。

*1:魔法少女リリカルなのは MOVIE 1st THE COMICS』を読んだのでこのあたりは撤回