リピュア(ストーリーズ)#1〜#5

 DVD借りて観てるのでストーリーズパートのみ。
 OP。無印OPでは、妹たちは兄を思うときは空を見上げるのだし、兄には天使=妹たちが舞い降りてくる。つまり兄妹が同じ地平にようやく立つ所で終わる。が、こちらでは地上を駈けよってくる。つまり共通の地平にすでに立っている。もちろん本篇も兄妹という自明性が基本的には先行します。

 #4までは以前観たし一応感想も書いたような気もする。ボクのにおい嗅いでみるとか花穂が申し分なく子供だとか、そのくらいしか言うべきことはない。あえて言うなら「マロンの誘惑」の最後、ケーキを食べないでもなく全部食べるでもなく、ちょっとだけ食べて残す、という結論がそのまま支持されるのがいい。誰も、全部食べなさいとか残すくらいなら最初から手をつけるなとか、そんなことは言わないのである。
 花穂があんまりよく転ぶので微笑ましいというより泣けてくる。いや、そんなに転んでなかったかな。ええと、暗黒SNOWで澄乃っちに憑依できるのですが、あれが場所移動で画面切り替わる度に転ぶのですよ。つまり一定の距離を歩くと必ず。そういうのを自分のこととして体験してみるとこれは随分と堪えるわけで、なるほど花穂も二言目にはドジだけど見捨てないでねとか言い出してしまうわけだと思う。

 それはそれとして#5が凄かった。豪速の児童文学系ファンタジー、という言い方でいいのかどうか知らないが、なんかそんなの。しかも一球でストライク三つとれそうな。やりすぎ。作中で言及されるように、さんかく座はギリシャ神話由来ではないので本来はあのような神話を持たない。あるはずのない神話を千影は朗読するし、ならばいるはずのない子供が出ても来ようというものだ。なんてーの、反在的?
 つまり僕の児童文学系ファンタジーへの了解というのが、あるはずのないことが普通に(日常と地続きで)いくらでも起こってしまう、という点にあるらしい。何らかのストーリーさえ背負っていれば。そんなわけで、清水マリコ、『ゼロヨンイチロク』(MF文庫J)を思い出したのはプラネタリウムのせいばかりではないと思う。

『涼宮ハルヒの暴走』

 なんだか知らないが、今回はハルヒが終始やたら楽しそうである。あと『憂鬱』以来の彼女の自分語りがちょっとだけ聞けて嬉しいとか。所で世にもくだらない話をすると、アニプリ漬けのアタマだと、どいつもこいつも妹に見える。長門は千影と印象が混ざることがある。ハルヒの騒ぎようはたまに四葉じみて見える。どういうことかというと、イタいのは変わらぬが概ね無害でありどころか時に微笑ましくさえあって、普通の女の子寄りになっているってことで。

 ハルヒはもうつかまってしまった。キョンにだけではなく、仲間とか日常とかそういうものに。もう『憂鬱』のときのように、自分で作ったSOS団なんてポイして別の世界を選ぶ、ということはもはや起きまい。よかったじゃないか。願わくは、それを大切だなんて思わないように! 楽園は楽園と意識されたらおしまいなんだ。だが今は長門の可愛さを満喫しよう。結局それです。

 「エンドレスエイト」。あんた本当はそんなことがしたかったのか! と思うとやっぱりせつなくて泣いちゃう、そんな話。何言ってるのかわかりませんね私。子供っぽいハルヒ萌え。どこの子供かと思うぐらい真っ黒に日焼けとかそのへん。
 ずっと八月だったらどんなに素晴らしいだろう、と思わなくもないのだが、長門のことを考えるとそうも言ってられないわけで。
 「射手座の日」。なんと超常現象抜きである。普通にコンピュータ研と遊んだだけ。キャラ萌えだけでも戦える。
 「雪山症候群」。結局のところ長門に頼らなければ話が作れないんでしょうか。長門に余計な負担がかかるのに怒りを覚えた場合、それをぶつける対象は作者でよろしいのでしょうか。むう。